札幌のアイスホッケー略年史

明治

1877年
(明治10年)

「ボーイズ・ビー・アンビシャス」で有名なウィリアム・クラーク博士が帰国した後、札幌農学校(現在の北海道大学)の教授として日本に来たアメリカ人ブルックスが、スケート靴を持ってきて、スケートを紹介した。

1891年
(明治24年)

当時ジョンズ・ポプキンス大学を卒業した農学者の新渡戸稲造が、帰国の際アメリカ製のスケート3足を持ち帰り、札幌農学校(現在の北海道大学)の教授となり、生徒にスケートを紹介した。
その後、生徒達の間でスケートが広まり、札幌農学校と北鳴学校(札幌一中の前身、現在の道立札幌南高校)の生徒達70名が集まり、「札幌スケーティング倶楽部」が設立され道庁の池がスケート場となり、夏の遊戯会に対抗して氷上運動会が催されるようになった。

1892年
(明治25年)

7月23日、オランダのスヘフェニンゲンで国際スケート連盟(ISU)が設立された。

1893年
(明治26年)

第1回世界スピード選手権がアムステルダムで開催された。冬のスポーツはスケートしかない時代だったから愛好者は増える一方で、道庁の池では狭くなり、札幌北1条東2丁目の札幌工業所の池に移った。

1894年
(明治27年)

札幌工業所の池は、街の中心部にあり、多くの愛好者が増えた。

1895年
(明治28年)

札幌農学校(現在の北海道大学)にスケーティング部を創立された。

1896年
(明治29年)

札幌工業所の池も手狭になり、中島公園の池に移っている。  
しかし、これらのスケート場は、いずれもただ氷が張ってあるということだけで、冬季間降雪量の多い札幌は、各スケーターが自ら除雪や製氷しなければならなかった。スケートの可能なシーズンも、毎年12月下旬から翌年の2月中旬の50日位で、2月近くになると融雪が始まり池の水が積雪の上に乗り、実際に滑走できる期間は年間せいぜい25日もあれば良い方だった。

1897年
(明治30年)

国内では、岩手県盛岡で、アメリカ人宣教師ネロリーが氷上でスケート滑走を披露し、そこから東北各地にスケートが広まった。

1903年
(明治36年)

宮城県仙台で、イギリス人デビソンと旧仙台二校生徒が、共同で「仙台式下駄スケート」を開発。同年、長野県諏訪湖地方にて、田中稲見兄弟が下駄スケートを紹介すると、諏訪中学の教師が冬季授業としてスケート滑走を行った。

1904年
(明治37年)

札幌農学校(現在の北海道大学)の校内で、エルムの木陰を除雪し製氷したスケートリンクが作られる。
外国の参考書でフィギュアを研究したが、ごく初歩的なもので、スピードもただ走り回るだけであったが、当時、農学校の学生がこのリンクでスケートの技をみがいた。この学生達の姿を見て、スケートの無い少年たちが、工夫を始めた。「竹草履」「ベッタ」「下駄スケート」で固まった雪道を滑って遊び始めた。現在ふうにいうと市民スポーツの始まりである。

1905年
(明治38年)

当時、日本の植民地だった満州国(現在中華人民共和国黒龍江省など)でスケートの普及が始まり、隣国ロシアとの交換競技大会がハルピンで実施された。

1906年
(明治39年)

長野県では国鉄(現JR)中央東線が開通。それまでスケートの普及の流れは、地方各地でそれぞれ少しずつという感じだったが、この中央東線の開通で首都圏のスケート愛好者が続々と諏訪湖に集まった。
当時の諏訪湖は、現在と違って冬季は毎年必ずといって良いほど湖畔の全面が結氷し、スケートをするのには最高の条件を備えていた.

1908年
(明治41年)

アイスホッケーの国際統括組織として、国際アイスホッケー連盟(IIHF)が創設された。

1911年
(明治44年)

長野県には、更に中央西線も開通して、名古屋・大阪方面のスケート愛好家も訪れるようになり、この中央線開通によりスケートのメッカは諏訪湖となっていった。

大正

1915年
(大正4年)

平沼亮三が初めてアイスホッケーの防具を輸入し、諏訪湖で河久保子朗、
田中稲見らがプレーをした。

1916年
(大正5年)

北大スケーティング部員の内藤芳雄(1951年スイス・ダボスで開催した世界選手権大会500mで、日本人初の優勝をした 内藤 晋選手の父)が、長野県諏訪湖に行ったとき、河久保子朗に会い、その際、日本に全国を統括する日本スケート会の設立の必要性を感じ、更に地方にもスケート協会の設立の必要性を認め、帰札して、従来からあった「札幌スケーティング倶楽部」を発展的に解消し、より組織的、競技的である「札幌スケート協会」の創立に奔走した。

1920年
(大正9年)

日本最初のスケート統括団体として「日本スケート会」が発足。
札幌では中島遊園地のスケート場が開かれた。この年、札幌野球協会内にスケート部が設立された。

1921年
(大正10年)

内藤芳雄は、当時の市会議員木下三四彦弁護士と意を通じ、当時の北大文武会スケート部(明治39年創立)の各部員である学生と、市内各中学生徒、更に一般スケート愛好者を加えて、札幌野球協会スケート部から分離して、札幌スケート協会が設立された。
協会は、中島公園の池の東側に約900平方メートルの氷盤を作り、冬季間の除雪・製氷を協会の手で行い、第1回スケート競技会が開かれた。
協会の機構は、木下三四彦会長、田所哲太郎副会長(北大スケート部部長)、内藤芳雄幹事長、それに数人の幹事を設けて運営に当たった。

1923年
(大正12年)

12月 日本で初めて、北海道帝国大学(現北海道大学)の本科と予科が、
アイスホッケーの試合を行った。

1924年
(大正13年)

2月。長野県下諏訪神社秋宮脇の特設リンクで、早稲田大学と旧制松本高校(現信州大学)、慶応大学、帝国大学(現東京大学)によって、本州として初めてのアイスホッケーの試合を行った。

札幌では、1月に、北大主催による「第一回全道中等学校氷上競技大会」が中島遊園地の池リンクで開催され、参加チームは、札幌一中・札幌二中・札幌師範・北海中学・札幌工業など、西田信一(札幌工業・のちに、苫小牧市長・衆議院議員札幌オリンピック大臣・北海道アイスホッケー連盟初代会長)・南部忠平(北海中・ロサンゼルスオリンピック三段跳び金メダル)・小柳一誠(札幌二中)・有地佶(札幌工業)・横道節男(札幌師範・のちに、衆議院議員。元北海道知事、横道孝雄の父)等の選手達が活躍した。札幌工業の西田信一が、苫小牧工業の教師として赴任し生徒にスケートを教えたのが、苫小牧のスケートの始まりで、大正13年には苫小牧工業にスケート部ができ、選手達にはスピードとホッケーの両方をさせていた。

海外では、江守栄作(札幌出身で、清水貿易ウラジオストク支店勤務)が、ロシア極東大会フィギュアの部で、見事に優勝した。
帰国後は、アイスホッケーに転向。江守栄作は、札幌市豊水小学校の出身で、1985年(昭和60年)東京都アイスホッケー連盟会長在任中、私財3億を投じて、故郷札幌の星置にスケートリンクを建設し、札幌市へ寄贈した。札幌市は、江守栄作の篤志に感謝し,永く記念するために「江守記念星置スケート場」と命名した。

1925年
(大正14年)

1月。「全国学生氷上競技連盟」が結成され、長野県浅間六助池で第1回日本学生氷上競技選手権大会(インカレ)が、開催された。しかし、暖気のため、スピード競技ができず,フィギュアとアイスホッケーの二種目を実施した。
札幌では、1月に第二回全道中等学校氷上競技大会を開催し、初出場の苫小牧工業が、強豪の北海中学や札幌師範を破り、優勝した。北海道大学は選手を苫小牧に派遣し、模範競技大会を行った。2月11日第1回さっぽろ氷上カーニバルが開催される。
大正14年、苫小牧の王子製紙の従業員達が、工場内にアイスホッケーの同好会「王子イーグル」が誕生させた。後に会社側に認められて「王子製紙アイスホッケー部」となった。この町に本格的にスケートを根付かせる為、同年、苫小牧スケート協会が誕生した。

1925年
(大正15年)

第2回日本学生氷上競技選手権大会が長野県松原湖で開催され、北海道大学が初出場して、フィギュア競技は優勝・アイスホッケー競技は準優勝

昭和

1927年
(昭和2年)

大正天皇御大葬のため、第3回インカレは中止。
全国学生氷上競技連盟の関係者によって、「大日本氷上競技連盟」を創立。
札幌スケート協会の創立と発展に伴い、北海道各市町村にもスケート協会ができて、この年、北海道氷上競技連盟が設立された。

1928年
(昭和3年)

「日本スケート会」は「大日本スケート連盟」を創立。札幌では、第一回全北海道氷上選手権大会が中島遊園地のスケート場で開催されて以来、数年間は、北海道の中心競技場となっていた。
アイスホッケー競技では、北海道大学が、第1回・第3回(昭和5年)。第6回(昭和8年)に準優勝。第5回(昭和7年)には、王子製紙主体の苫小牧倶楽部を破り優勝している。
フィギュアでも、北海道大学は、第1回から第6回までと、第9回から第13回まで、連続優勝。

1929年
(昭和4年)

大日本氷上競技連盟主催で、「第1回全日本氷上選手権大会」を長野県松本市で開催。
「大日本氷上競技連盟」と「大日本スケート連盟」が合併して、「大日本スケート競技連盟」が、創立された。

1930年
(昭和5年)

大日本スケート競技連盟主催で「第1回アイスホッケー全日本選手権大会」が、栃木県日光で開催された。この年、大日本スケート競技連盟が国際スケート連盟(ISU)及び国際アイスホッケー連盟(IIHF)へ加盟した。
満州医大が、ヨーロッパ遠征のあと、日本代表として初めて、アイスホッケー世界選手権大会に出場。

1931年
(昭和6年)

大日本スケート競技連盟の「(財)大日本体育協会」への加盟。
第1回全国高等学校氷上競技大会(旧制高等学校・大学予科含む)が盛岡の高松池で開催され、第12回(昭和16年)まで続いた。

1933年
(昭和8年)

栃木県の日光で、初めて全国の中等学校大会を開催した。苫小牧工業が、アイスホッケー、スピード競技に優勝した。

1934年
(昭和9年)

第1回 全国中等学校氷上大会が日光で開催され、アイスホッケー競技は、札幌師範が優勝した。
札幌では、1月28日から第1回全札幌氷上ホッケー大会を中島公園リンクで開催され、北海道大学・札幌師範・札幌倶楽部・札幌一中・北陽・ナショナルの6チーム参加した。この大会は第8回(昭和16年)で終了した。

第1回北海道女学校・小学校氷上競技大会が中島公園リンクで開催した。

1935年
(昭和10年)

第2回北海道女学校・小学校氷上競技大会に、小学生のアイスホッケー競技も加わり、苫小牧小と苫小牧西小によって行われ、1:1同点のまま延長戦でも決着できず、引き分けた。
この試合が、日本に於ける、ちびっ子アイスホッケー公式戦の第1号であった。

1936年
(昭和11年)

第四回冬季オリンピック競技大会(ガルミッシュ・バルテンキルヘン)に、アイスホッケー日本代表が初参加した。

1937年
(昭和12年)

第1回札幌市氷上競技大会(スピード・フイギュア・アイスホッケー)が開催され、この大会は、第5回で終了した。

1938年
(昭和13年)

第五回札幌オリンピック冬季大会(1940年)が決定して、その準備大会として、第9回日本学生氷上競技選手権大会が、札幌で開催された。中島公園内にあった野球場にH型に水道配管を行い、地上散水の氷盤を作って、400mのトラックを設定し良質の氷で盛大に開催されたが、日華事変により、第五回札幌オリンピック冬季大会の開催は、返上となった。
この年、苫小牧には、町営スケートリンク(公認400m)と、王子製紙苫小牧工場内にホッケーリンク2面が完成した。

1939年
(昭和14年)

東京芝浦リンク(屋内)で、第15回インカレ(アイスホッケー競技)が行われ、第16回・第17回・第18回までアイスホッケー競技は分離開催とし、第18回以降は中断した。

1941年
(昭和16年)

12月8日太平洋戦争勃発

1942年
(昭和17年)

(財)大日本体育協会は、(財)大日本体育会となり、(名称変更、部会制度等)大日本スケート競技連盟は、(財)大日本体育会の組織(スケート部会)となり、「大日本スケート競技連盟」の組織は消滅した。

1945年
(昭和20年)

8月15日 終戦

1946年
(昭和21年)

日本スケート連盟として再発足。
苫小牧の岩倉組にアイスホッケー部が生まれる。
戦後復活初の全道氷上競技大会兼第1回国民体育大会冬季スケート大会予選が、王子製紙リンクにて開催された。

1947年
(昭和22年)

第1回国民体育大会冬季スケート競技会が、青森県八戸市でスピードとフィギュア競技の2種目で、開催された。戦争のため中断していた第19回インカレも長野県松原湖で再開。

1949年
(昭和23年)

2回国民体育大会冬季スケート競技会(岩手県盛岡市)からアイスホッケー競技も加わり、北海道は第8回まで6連勝。
第1回全道高校氷上競技選手権兼国体高校(少年)予選を王子製紙苫小牧工場リンクにて開催。

1950年
(昭和25年)

日本スケート連盟の国際スケート連盟(ISU)への再加盟。
第5回国民体育大会冬季スケート競技会が苫小牧市王子製紙リンクで開催。
第1回全日本実業団アイスホッケー大会が東京芝浦スポーツセンターにて開催。

1951年
(昭和26年)

日本スケート連盟の国際アイスホッケー連盟(IIHF) への再加盟。
スイスのダボスで開催された「1951年 世界スピード選手権大会」500mで、札幌出身の内藤晋(札幌スケート協会設立初代幹事長 内藤芳雄の子息)が優勝。

1952年
(昭和27年)

第1回全国高校競技選手権大会アイスホッケー競技会(蓼科湖)で開催。
1月12日、アメリカのニューヨーク・メトロポリタンチームが来札し、中島野球場特設リンク(中島特設リンク)にて、全北海道と対戦した。全北海道は7対6で惜敗をした。

1953年
(昭和28年)

国際スケート連盟(ISU)総会で、1954年度世界スピードスケート選手権大会を日本に招致、札幌市で開催することを決定。
円山陸上競技場に、雪を踏み固め総面積1万8千平方メートルをリンクにするのは容易なことではなく、当時アイスホッケーチーム「札幌倶楽部」の代表 谷木繁太郎(通称氷作りの名人と称された)が、日本スケート連盟の竹田恒徳会長から依頼された。
札幌市が動員する作業員は氷作りの経験が浅く、当時スケート連盟に加盟していたホッケーチームの選手たちが動員され12月中旬から作業を開始し、不眠不休の連日で大会を迎えた。

1954年
(昭和29年)

1月16日 1954年度世界スピードスケート選手権大会(東洋で始めての競技会)が、札幌円山運動場の特設リンクで開催された。
この大会の成功と盛り上がりが、冬季オリンピックを札幌へ・・という点火となった。
この大会の後、第9回国民体育大会冬季大会スケート競技会が、札幌で初めて開催され、アイスホッケー競技は中島特設リンクで行い、六連覇中の北海道が東京都に決勝戦で破れる波乱の大会だった。
「第1回 道新杯争奪全道アイスホッケー大会」が、中島特設リンクで開催された。以後第11回(昭和39年)まで札幌市で毎年開催した。

1955年
(昭和30年)

「第1回全日本アイスホッケー選手権大会」が、日光の精銅所リンクで開催される。

1956年
(昭和31年)

 

1957年
(昭和32年)

 

1958年
(昭和33年)

 

1959年
(昭和34年)

 

1960年
(昭和35年)

「第1回札幌市民体育大会アイスホッケー競技会」(真駒内自衛隊特設リンク)

1961年
(昭和36年)

第1回NHK杯争奪全国選抜アイスホッケー大会が、中島特設リンクで開催された。以後第6回大会(昭和41年)まで札幌市中島特設リンクで毎年開催したが、第7回以後は東京に開催地を変更した。
「第2回札幌市民体育大会アイスホッケー競技会」から開催場所を移して、「第10回大会(昭和45年)」まで、中島特設リンクで開催した。

1962年
(昭和37年)

 

1963年
(昭和38年)

「第9回全日本アイスホッケー選手権大会」が、札幌中島特設リンクで開催された。北海道大学と札幌師範が参加。

1964年
(昭和39年)

 

1965年
(昭和40年)

 

1966年
(昭和41年)

4月、第11回オリンピック冬季大会の開催地が、札幌市に決定。

11月、日本アイスホッケーリーグ誕生。
第1回大会 (前期東京・後期苫小牧)
王子製紙・岩倉組・古河電工・福徳相互銀行・新結成の西武鉄道の5チーム参加。

1967年
(昭和42年)

 

1968年
(昭和43年)

 

1969年
(昭和44年)

 

1970年
(昭和45年)

札幌オリンピック施設として新設された札幌市美香保体育館で12月「STV杯争奪実業団アイスホッケー(岩倉組対王子製紙)」開催した。

1971年
(昭和46年)

1月「第11回札幌市民体育大会アイスホッケー競技会」(美香保体育館)
「日本:西ドイツ対抗戦」を、オリンピック会場の真駒内屋内競技場(真駒内アイスアリーナ)で開催した。
2月「札幌国際冬季スポーツ大会」(プレオリンピック)開催
アイスホッケー競技の参加国は、ユーゴ、ノルウェー、全日本、北海道、本州の5チーム
11月「オリンピック強化選手紅白試合」を真駒内屋内競技場(真駒内アイスアリーナ)で開催した。
11月「'72STV杯争奪実業団アイスホッケー大会」岩倉・王子・国土の3チーム参加リーグ戦を月寒体育館で開催した。
12月「第43回北海道氷上競技選手権大会」を真駒内・月寒の両会場で開催した。

1972年
(昭和47年)

2月 第11回札幌オリンピック冬季大会開催
アイスホッケー競技の参加国は、ソ連・チェコ・スウェーデン・フィンランド・西ドイツ・アメリカ・スイス・ポーランド・ノルウェー・ユーゴ・日本。(11ヶ国) 月寒と真駒内の両会場で行った。

3月「第12回札幌市民体育大会アイスホッケー競技会」(月寒体育館)
4月 札幌オリンピック冬季大会が終了後、日本スケート連盟アイスホッケー部門が、日本スケート連盟から独立し、「日本アイスホッケー連盟」を創立。会長両角政人・理事長銘苅健二。

日本リーグ国土計画が西武鉄道から分離発足し、リーグ加盟。
福徳相互銀行がリーグ脱退。
11月「第7回 日本リーグ」(古河・西武・国土・岩倉・王子)を3日間、月寒体育館で開催した。

1973年
(昭和48年)

1月札幌スケート連盟ホッケー部門は、月寒体育館に少年アイスホッケー教室を開設し、月寒少年アイスホッケークラブ(小学生・中学生)を3月に結成した。
札幌オリンピック開催記念行事として、「第1回記念大会」を月寒体育館で開催した。この行事は第7回(昭和54年)で終了した。
2月「第1回北海道:ソ連極東親善スポーツ大会」を真駒内屋内競技場にて開催した。
2月9日文部省から、財団法人認可を受け「日本アイスホッケー連盟」が、「財団法人 日本アイスホッケー連盟」になり、会長堤義明・副会長両角政人・理事長山添義雄。

8月25日には、「北海道スケート連盟」からホッケー部門が分離独立して、「北海道アイスホッケー連盟」結成、会長西田信一・理事長西浦清輝・事務局長友成真一。

9月1日「札幌スケート連盟」からホッケー部門が分離して、「札幌アイスホッケー連盟」結成。会長東 正和・理事長朝日 孝・副理事長石井一男・事務局長片岡 勲。加盟団体8チーム(会員数152名)

10月「'73 STV杯争奪実業団アイスホッケー大会」(月寒体育館)
11月「第8回 日本リーグ(第2次)」(月寒体育館)
12月「インターカレッジ北海道地区予選会」(月寒体育館)
月寒体育館に続き、真駒内屋内競技場(アイスアリーナ)に少年アイスホッケー教室を開講した。

1974年
(昭和49年)

1月「新春実業団B選抜大会(札幌クラブ対日軽金苫小牧)」を真駒内屋内競技場(アイスアリーナ)で開催し、札幌オリンピック後のアイスホッケー人気で、約5,000人の観客が観戦した。
「第23回全国高等学校スケート競技選手権大会」(月体育館・真駒内屋内競技場)
「第29回国民体育大会冬季スケート競技会」アイスホッケー成年の部 (月寒体育館・真駒内屋内競技場)
2月「第8回 日本リーグ(第3次)最終リーグ」(真駒内屋内競技場)
第2回札幌オリンピック開催記念行事「札幌・苫小牧チビッ子大会」を月寒体育館で開催した。
「第1回日本アイスホッケー連盟会長杯争奪道南地区チビッコ大会」へ札幌より、月寒・真駒内の2チームが参加。
10月「'74 STV杯争奪実業団アイスホッケー大会」(月寒体育館)
12月「第9回 日本リーグ(決勝リーグ)」(真駒内屋内競技場)
「第26回北海道体育大会冬季大会スケート競技会」一般の部(月寒体育館)
十条製紙(現日本製紙クレインズ)が日本リーグ加盟。

1975年
(昭和50年)

「HTB杯新春実業団大会」(真駒内屋内競技場)
「第3回札幌・八戸チピッコ定戦」(月寒体育館)
「第27回北海道高等学校選手権大会」(月寒体育館)
「第2回北海道学生リーグ」(月寒体育館)
「第3回北海道:ソ連極東親善スポーツ大会」(真駒内屋内競技場)
「第3回北大・北海学園大定期戦」(月寒体育館)
「札幌オリンピック開催記念」(月寒体育館)
「第15回札幌市民大会」(月寒体育館)
「'75アイスホッケー世界選手権大会(Bプール)」(真駒内屋内競技場)参加国:東ドイツ・ユーゴ・西ドイツ・オランダ・ルーマニア・スイス・イタリア・日本(八ヶ国)
札幌アイスホッケー連盟役員改選会長岩倉 明・理事長朝日 孝・副理事長石井一男・事務局長片岡 勲。
「'75STV杯争奪実業団アイスホッケー大会」(月寒体育館)
「第10回 日本リーグ(第2次)」(真駒内屋内競技場)
「第1回全日本大学選抜選手権大会兼インカレ道予選」(月寒体育館)
「第32回国立七大学大会」(月寒体育館)
「オリンピック代表選手選考・東西対抗戦」(真駒内屋内競技場)
「三都市交歓少年アイスホッケー大会」(月寒体育館)

1976年
(昭和51年)

「第44回全日本アイスホッケー選手権大会(A)」(真駒内屋内競技場)
「札幌オリンピック開催記念」(月寒体育館)
「日本:カナダ親善国際大会」(真駒内屋内競技場)
「第1回札幌アイスホッケー選手権大会」(月寒体育館)
「第16回札幌市民大会」(月寒体育館)
「第23回道新杯争奪全道大会」(月寒体育館)
「第18回東日本医科大学大会」(月寒体育館)
「HTBチビッ子アイスホッケー大会」(月寒体育館)
「'76STV杯争奪実業団アイスホッケー大会」(月寒体育館)
「第11回 日本リーグ(第2次)」(真駒内屋内競技場)
「第2回札幌アイスホッケー選手権大会(A・B・Cグループ)」(月寒体育館)
「第2回全日本大学選抜選手権大会兼インカレ道予選」(月寒体育館)
「五都市交歓少年アイスホッケー大会」(月寒体育館)

1977年
(昭和52年)

「第1回HTB杯全国選抜ちびっ子交換大会」(月寒体育館)
「札幌オリンピック開催記念」(月寒体育館)
「第17回札幌市民大会」(月寒体育館)
「日:ソ親善国際アイスホッケー大会」(真駒内屋内競技場)
「国際アイスホッケー大会(日本・東ドイツ・ユーゴ)」(真駒内屋内競技場)
札幌アイスホッケー連盟役員改選 会長 朝日 孝・副会長兼理事長 石井一男・副理事長 片岡 勲。
「'77STV杯争奪実業団アイスホッケー大会」(月寒体育館)
「日本:フィンランド親善ジュニア大会」(真駒内屋内競技場)
「第12回 日本リーグ(第2次)」(真駒内屋内競技場)
「第3回全日本大学選抜選手権大会兼インカレ道予選」(月寒体育館)

1978年
(昭和53年)

「第29回全道大会兼第30回全道高校選手権大会」(真駒内屋内競技場・月寒体育館)
「五都市少年アイスホッケー大会」(月寒体育館)
「第3回札幌アイスホッケー選手権大会(A・B・Cグループ)(月寒体育館・真駒内屋内競技場・美香保体育館)
「札幌オリンピック開催記念」(月寒体育館)
「第18回札幌市民大会」(月寒体育館)
「三国対抗国際アイスホッケー大会(日本・カナダ・アメリカ)」(真駒内屋内競技場)
「第2回HTB杯全国四都市選抜ちびっ子交換大会」(月寒体育館)
「'78STV杯争奪実業団アイスホッケー大会」(月寒体育館)
「第13回 日本リーグ(第1次)」(月寒体育館・真駒内屋内競技場)
「第4回全日本大学選抜選手権大会兼インカレ道予選」(月寒体育館)
「国際アイスホッケー大会(日本・フィンランド・西ドイツ)」(真駒内屋内競技場)

1978年
(昭和54年)

「五都市少年アイスホッケー大会」(月寒体育館)
「第9回全道中学スケート大会」(月寒体育館・真駒内屋内競技場)
「第3回HTB杯全国四都市選抜ちびっ子交換大会」(真駒内屋内競技場)
「札幌オリンピック開催記念」(月寒体育館)
「第19回札幌市民大会」(月寒体育館)
「国際アイスホッケー大会(日本・ソ連・カナダ)」(真駒内屋内競技場)
「第4回札幌アイスホッケー選手権大会(A・B・Cグループ)」(月寒体育館)
札幌アイスホッケー連盟役員改選 会長 朝日 孝・副会長 石井一男・大吉 豊・理事長 片岡 勲。
日本リーグ岩倉組アイスホッケー部廃部・雪印アイスホッケー部誕生(6月)
9月「新星!雪印アイスホッケーチーム誕生記念試合」(月寒体育館)
「'79STV杯争奪実業団アイスホッケー大会」(月寒体育館)
「第14回 日本リーグ(第2次)」(月寒体育館)
「第5回全日本大学選抜選手権大会兼インカレ道予選」(月寒体育館)
「'80オリンピックチーム強化シリーズ」(真駒内屋内競技場)

1980年
(昭和55年)

「五都市少年アイスホッケー大会」(月寒体育館)
「第1回札幌市中学校アイスホッケー競技大会」(月寒体育館)
「第4回HTB杯全国四都市選抜ちびっ子交換大会」(真駒内屋内競技場)
「道民スポーツ札幌大会兼札幌オリンピック開催記念」(月寒体育館)
「第20回札幌市民大会」(月寒体育館)
「第1回JOC杯争奪アイスホッケー大会」(真駒内屋内競技場)
「第27回道新杯争奪全道アイスホッケー大会」(月寒体育館)
「第3回全道学生アイスホッケーリーグ」(月寒体育館)
「全国医学・歯学・薬学大学選手権大会」(月寒体育館)
「第5回札幌アイスホッケー選手権大会(A・B・Cグループ)」(月寒体育館)
札幌アイスホッケー連盟役員改選(副会長大吉氏転勤の為)西 仁就任
名誉会長 佐藤 貢・会長 朝日 孝・副会長 石井一男・西 仁・理事長 片岡 勲
「第2回道新杯争奪 雪印:十条定期戦」(月寒体育館)
「'80STV杯争奪実業団アイスホッケー大会」(月寒体育館)
雪印スケートセンター完成!落成式(昭和55年11月4日)
「第15回 日本リーグ(第2次)」(月寒体育館)
「インカレ北海道予選」(月寒体育館・雪印スケートセンター)
「第15回 日本リーグ(第3次)」(雪印スケートセンター)
「第1回札幌市中学校新人アイスホッケー大会」(雪印スケートセンター)
「日本:中国友好アイスホッケー大会」(真駒内屋内競技場)
「第2回札幌市中学校アイスホッケー競技大会」(雪印スケートセンター)

1981年
(昭和56年)

「第1回全国中学校アイスホッケー競技会開催(青森県・八戸市)」
「第5回HTB杯全国四都市選抜ちびっ子交換大会」(真駒内屋内競技場)
「第1回全道小学生(少年)アイスホッケー選手権大会」(雪印スケートセンター)
「道民スポーツ札幌大会兼札幌オリンピック開催記念」(月寒体育館)
「日本:チェコ選抜アイスホッケー」(真駒内屋内競技場)
「第21回札幌市民大会」(月寒体育館)
「'81世界選手権日本代表チーム壮行試合」(雪印スケートセンター)
「第4回全道学生アイスホッケーリーグ」(雪印スケートセンター)
「第6回札幌アイスホッケー選手権大会(A・B・Cグループトーナメント)」(月寒体育館)
「'81STV杯争奪実業団アイスホッケー大会」(月寒体育館)
「第16回 日本リーグ(第4次)」(月寒体育館・雪印スケートセンター・真駒内屋内競技場)
「インカレ北海道予選」(月寒体育館)
「第3回札幌市中学校アイスホッケー競技大会」(月寒体育館)

1982年
(昭和57年)

「第1回全日本女子アイスホッケー選手権大会開催(東京・品川)」
「第6回HTB杯全国四都市選抜ちびっ子交換大会」(真駒内屋内競技場)
「第33回全道大会兼第30回全道高校選手権大会」(真駒内屋内競技場・月寒体育館・雪印スケートセンター)
「第2回全道小学生(少年)アイスホッケー選手権大会」(雪印スケートセンター)
「第6回全道学生アイスホッケーリーグ」(雪印スケートセンター)
「第2回全国中学校アイスホッケー競技会」(真駒内屋内競技場・月寒体育館)
「'82セイコーワールドアイスホッケー札幌大会(日本・カナダ・北海道選抜)」(真駒内屋内競技場)
「道民スポーツ札幌大会兼札幌オリンピック開催記念」(月寒体育館)
「第22回札幌市民大会」(月寒体育館)
「第7回札幌アイスホッケー選手権大会(A・B・C・D)」(月寒体育館・美香保体育館・雪印スケートセンター)
札幌アイスホッケー連盟役員改選(副会長 西 仁転勤の為、奥田平治が就任)
「第4回道新杯争奪 雪印:十条定期戦」(雪印スケートセンター)
「'82STV杯争奪実業団アイスホッケー大会」(月寒体育館)
「'82」大学対抗アイスホッケー大会」(月寒体育館)
「第17回 日本リーグ(第4次)」(月寒体育館・雪印スケートセンター・真駒内屋内競技場)
「インカレ北海道予選」(雪印スケートセンター)
「第4回札幌市中学校アイスホッケー競技大会」(月寒体育館)
「第30回国立七大学アイスホッケー大会」(雪印スケートセンター)

1983年
(昭和58年)

「'83HBC杯争奪雪印:王子定期戦」(雪印スケートセンター)
「日本:中国友好アイスホッケー大会」(真駒内屋内競技場)
「第7回HTB杯全国四都市選抜ちびっ子交換大会」(真駒内屋内競技場)
「第13回全道中学スケート大会」(月寒体育館)
「第1回NHK杯争奪少年アイスホッケー全道選抜大会」(雪印スケートセンター)
「第6回全道学生アイスホッケーリーグ二部」(雪印スケートセンター)
「道民スポーツ札幌大会」(月寒体育館)
「'83セイコースーパー・アイスホッケー札幌大会(北海道選抜:ソ連)」(真駒内屋内競技場)「第23回札幌市民大会」(月寒体育館)
「第30回道新杯争奪全道アイスホッケー大会」(雪印スケートセンター)
「国際アイスホッケーリーグ戦(アメリカ・オーストリア・スイス・日本)」(真駒内屋内競技場)
「第8回札幌アイスホッケー選手権大会(A・B・C・D)」(月寒体育館・美香保体育館・雪印スケートセンター)
「'83アイスホッケー世界選手権(Bプール)」(東京・代々木)
3月 日本ナショナルチーム・中国遠征(団長片岡理事長)派遣
4月 北海道・カナダアルバータ州交流(副団長片岡理事長)派遣
札幌アイスホッケー連盟役員改選 名誉会長 佐藤 貢・会長 朝日 孝・副会長 石井一男・奥田 平治・理事長 片岡 勲
「'83STV杯争奪実業団アイスホッケー大会」(月寒体育館)
「'83 大学対抗アイスホッケー大会」(月寒体育館)
「第18回日本リーグ(第1次)」(月寒体育館・雪印スケートセンター)
「インカレ北海道予選」(月寒体育館)
11月 北海道アイスホッケー連盟結成10周年記念式典・祝賀会(札幌プリンスホテル)
12月 札幌アイスホッケー連盟結成10周年記念誌発行

1984年
(昭和59年)

 

1985年
(昭和60年)

 

1986年
(昭和61年)

 

1987年
(昭和62年)

 

1988年
(昭和63年)

 

1989年
(昭和64年)

 

平成

1990年
(平成2年)

 

1991年
(平成3年)

 

1992年
(平成4年)

 

1993年
(平成5年)

 

1994年
(平成6年)

 

1995年
(平成7年)

 

1996年
(平成8年)

 

1997年
(平成9年)

 

1998年
(平成10年)

「1998冬季オリンピック長野大会」開催 (長野市)
「第1回インライン全日本選手権」開催 (長野県・野辺山)

1999年
(平成11年)

日本リーグ古河電工が廃部、HC日光アイスバックスが発足、リーグ加盟。

2000年
(平成12年)

 

2001年
(平成13年)

日本リーグ雪印が廃部、札幌ポラリスが発足、リーグ加盟。

2002年
(平成14年)

日本リーグ西武鉄道・札幌ポラリスが廃部、リーグ脱退。

2003年
(平成15年)

アジアリーグ開幕。日本(王子・コクド・日本製紙・日光)韓国(ハルラウィニア)の5チーム。
初代優勝は、日本製紙となった。

2004年
(平成16年)

アジアリーグに中国(2チーム)・ロシア(1チーム)が新加盟して、8チームで開催。

2005年
(平成17年)

アジアリーグに中国(北京)・韓国(カンウォンランド)が新加盟し、ロシアが脱退して、9チームで開催。

2006年
(平成18年)

 

2007年
(平成19年)

「2007世界女子選手権大会デビジョンⅠ」開催(日光市・霧降)

2008年
(平成20年)

 

2009年
(平成21年)

「2009世界選手権大会デビジョンⅠグループB」開催(月寒体育館)

2010年
(平成22年)

 

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