札幌のアイスホッケー略年史
明治
1877年 (明治10年) |
「ボーイズ・ビー・アンビシャス」で有名なウィリアム・クラーク博士が帰国した後、札幌農学校(現在の北海道大学)の教授として日本に来たアメリカ人ブルックスが、スケート靴を持ってきて、スケートを紹介した。 |
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1891年 (明治24年) |
当時ジョンズ・ポプキンス大学を卒業した農学者の新渡戸稲造が、帰国の際アメリカ製のスケート3足を持ち帰り、札幌農学校(現在の北海道大学)の教授となり、生徒にスケートを紹介した。 |
1892年 (明治25年) |
7月23日、オランダのスヘフェニンゲンで国際スケート連盟(ISU)が設立された。 |
1893年 (明治26年) |
第1回世界スピード選手権がアムステルダムで開催された。冬のスポーツはスケートしかない時代だったから愛好者は増える一方で、道庁の池では狭くなり、札幌北1条東2丁目の札幌工業所の池に移った。 |
1894年 (明治27年) |
札幌工業所の池は、街の中心部にあり、多くの愛好者が増えた。 |
1895年 (明治28年) |
札幌農学校(現在の北海道大学)にスケーティング部を創立された。 |
1896年 (明治29年) |
札幌工業所の池も手狭になり、中島公園の池に移っている。 |
1897年 (明治30年) |
国内では、岩手県盛岡で、アメリカ人宣教師ネロリーが氷上でスケート滑走を披露し、そこから東北各地にスケートが広まった。 |
1903年 (明治36年) |
宮城県仙台で、イギリス人デビソンと旧仙台二校生徒が、共同で「仙台式下駄スケート」を開発。同年、長野県諏訪湖地方にて、田中稲見兄弟が下駄スケートを紹介すると、諏訪中学の教師が冬季授業としてスケート滑走を行った。 |
1904年 (明治37年) |
札幌農学校(現在の北海道大学)の校内で、エルムの木陰を除雪し製氷したスケートリンクが作られる。 |
1905年 (明治38年) |
当時、日本の植民地だった満州国(現在中華人民共和国黒龍江省など)でスケートの普及が始まり、隣国ロシアとの交換競技大会がハルピンで実施された。 |
1906年 (明治39年) |
長野県では国鉄(現JR)中央東線が開通。それまでスケートの普及の流れは、地方各地でそれぞれ少しずつという感じだったが、この中央東線の開通で首都圏のスケート愛好者が続々と諏訪湖に集まった。 |
1908年 (明治41年) |
アイスホッケーの国際統括組織として、国際アイスホッケー連盟(IIHF)が創設された。 |
1911年 (明治44年) |
長野県には、更に中央西線も開通して、名古屋・大阪方面のスケート愛好家も訪れるようになり、この中央線開通によりスケートのメッカは諏訪湖となっていった。 |
大正
1915年 (大正4年) |
平沼亮三が初めてアイスホッケーの防具を輸入し、諏訪湖で河久保子朗、 |
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1916年 (大正5年) |
北大スケーティング部員の内藤芳雄(1951年スイス・ダボスで開催した世界選手権大会500mで、日本人初の優勝をした 内藤 晋選手の父)が、長野県諏訪湖に行ったとき、河久保子朗に会い、その際、日本に全国を統括する日本スケート会の設立の必要性を感じ、更に地方にもスケート協会の設立の必要性を認め、帰札して、従来からあった「札幌スケーティング倶楽部」を発展的に解消し、より組織的、競技的である「札幌スケート協会」の創立に奔走した。 |
1920年 (大正9年) |
日本最初のスケート統括団体として「日本スケート会」が発足。 |
1921年 (大正10年) |
内藤芳雄は、当時の市会議員木下三四彦弁護士と意を通じ、当時の北大文武会スケート部(明治39年創立)の各部員である学生と、市内各中学生徒、更に一般スケート愛好者を加えて、札幌野球協会スケート部から分離して、札幌スケート協会が設立された。 |
1923年 (大正12年) |
12月 日本で初めて、北海道帝国大学(現北海道大学)の本科と予科が、 |
1924年 (大正13年) |
2月。長野県下諏訪神社秋宮脇の特設リンクで、早稲田大学と旧制松本高校(現信州大学)、慶応大学、帝国大学(現東京大学)によって、本州として初めてのアイスホッケーの試合を行った。 札幌では、1月に、北大主催による「第一回全道中等学校氷上競技大会」が中島遊園地の池リンクで開催され、参加チームは、札幌一中・札幌二中・札幌師範・北海中学・札幌工業など、西田信一(札幌工業・のちに、苫小牧市長・衆議院議員札幌オリンピック大臣・北海道アイスホッケー連盟初代会長)・南部忠平(北海中・ロサンゼルスオリンピック三段跳び金メダル)・小柳一誠(札幌二中)・有地佶(札幌工業)・横道節男(札幌師範・のちに、衆議院議員。元北海道知事、横道孝雄の父)等の選手達が活躍した。札幌工業の西田信一が、苫小牧工業の教師として赴任し生徒にスケートを教えたのが、苫小牧のスケートの始まりで、大正13年には苫小牧工業にスケート部ができ、選手達にはスピードとホッケーの両方をさせていた。 海外では、江守栄作(札幌出身で、清水貿易ウラジオストク支店勤務)が、ロシア極東大会フィギュアの部で、見事に優勝した。 |
1925年 (大正14年) |
1月。「全国学生氷上競技連盟」が結成され、長野県浅間六助池で第1回日本学生氷上競技選手権大会(インカレ)が、開催された。しかし、暖気のため、スピード競技ができず,フィギュアとアイスホッケーの二種目を実施した。 |
1925年 (大正15年) |
第2回日本学生氷上競技選手権大会が長野県松原湖で開催され、北海道大学が初出場して、フィギュア競技は優勝・アイスホッケー競技は準優勝 |
昭和
1927年 (昭和2年) |
大正天皇御大葬のため、第3回インカレは中止。 |
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1928年 (昭和3年) |
「日本スケート会」は「大日本スケート連盟」を創立。札幌では、第一回全北海道氷上選手権大会が中島遊園地のスケート場で開催されて以来、数年間は、北海道の中心競技場となっていた。 |
1929年 (昭和4年) |
大日本氷上競技連盟主催で、「第1回全日本氷上選手権大会」を長野県松本市で開催。 |
1930年 (昭和5年) |
大日本スケート競技連盟主催で「第1回アイスホッケー全日本選手権大会」が、栃木県日光で開催された。この年、大日本スケート競技連盟が国際スケート連盟(ISU)及び国際アイスホッケー連盟(IIHF)へ加盟した。 |
1931年 (昭和6年) |
大日本スケート競技連盟の「(財)大日本体育協会」への加盟。 |
1933年 (昭和8年) |
栃木県の日光で、初めて全国の中等学校大会を開催した。苫小牧工業が、アイスホッケー、スピード競技に優勝した。 |
1934年 (昭和9年) |
第1回 全国中等学校氷上大会が日光で開催され、アイスホッケー競技は、札幌師範が優勝した。 第1回北海道女学校・小学校氷上競技大会が中島公園リンクで開催した。 |
1935年 (昭和10年) |
第2回北海道女学校・小学校氷上競技大会に、小学生のアイスホッケー競技も加わり、苫小牧小と苫小牧西小によって行われ、1:1同点のまま延長戦でも決着できず、引き分けた。 |
1936年 (昭和11年) |
第四回冬季オリンピック競技大会(ガルミッシュ・バルテンキルヘン)に、アイスホッケー日本代表が初参加した。 |
1937年 (昭和12年) |
第1回札幌市氷上競技大会(スピード・フイギュア・アイスホッケー)が開催され、この大会は、第5回で終了した。 |
1938年 (昭和13年) |
第五回札幌オリンピック冬季大会(1940年)が決定して、その準備大会として、第9回日本学生氷上競技選手権大会が、札幌で開催された。中島公園内にあった野球場にH型に水道配管を行い、地上散水の氷盤を作って、400mのトラックを設定し良質の氷で盛大に開催されたが、日華事変により、第五回札幌オリンピック冬季大会の開催は、返上となった。 |
1939年 (昭和14年) |
東京芝浦リンク(屋内)で、第15回インカレ(アイスホッケー競技)が行われ、第16回・第17回・第18回までアイスホッケー競技は分離開催とし、第18回以降は中断した。 |
1941年 (昭和16年) |
12月8日太平洋戦争勃発 |
1942年 (昭和17年) |
(財)大日本体育協会は、(財)大日本体育会となり、(名称変更、部会制度等)大日本スケート競技連盟は、(財)大日本体育会の組織(スケート部会)となり、「大日本スケート競技連盟」の組織は消滅した。 |
1945年 (昭和20年) |
8月15日 終戦 |
1946年 (昭和21年) |
日本スケート連盟として再発足。 |
1947年 (昭和22年) |
第1回国民体育大会冬季スケート競技会が、青森県八戸市でスピードとフィギュア競技の2種目で、開催された。戦争のため中断していた第19回インカレも長野県松原湖で再開。 |
1949年 (昭和23年) |
2回国民体育大会冬季スケート競技会(岩手県盛岡市)からアイスホッケー競技も加わり、北海道は第8回まで6連勝。 |
1950年 (昭和25年) |
日本スケート連盟の国際スケート連盟(ISU)への再加盟。 |
1951年 (昭和26年) |
日本スケート連盟の国際アイスホッケー連盟(IIHF) への再加盟。 |
1952年 (昭和27年) |
第1回全国高校競技選手権大会アイスホッケー競技会(蓼科湖)で開催。 |
1953年 (昭和28年) |
国際スケート連盟(ISU)総会で、1954年度世界スピードスケート選手権大会を日本に招致、札幌市で開催することを決定。 |
1954年 (昭和29年) |
1月16日 1954年度世界スピードスケート選手権大会(東洋で始めての競技会)が、札幌円山運動場の特設リンクで開催された。 |
1955年 (昭和30年) |
「第1回全日本アイスホッケー選手権大会」が、日光の精銅所リンクで開催される。 |
1956年 (昭和31年) |
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1957年 (昭和32年) |
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1958年 (昭和33年) |
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1959年 (昭和34年) |
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1960年 (昭和35年) |
「第1回札幌市民体育大会アイスホッケー競技会」(真駒内自衛隊特設リンク) |
1961年 (昭和36年) |
第1回NHK杯争奪全国選抜アイスホッケー大会が、中島特設リンクで開催された。以後第6回大会(昭和41年)まで札幌市中島特設リンクで毎年開催したが、第7回以後は東京に開催地を変更した。 |
1962年 (昭和37年) |
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1963年 (昭和38年) |
「第9回全日本アイスホッケー選手権大会」が、札幌中島特設リンクで開催された。北海道大学と札幌師範が参加。 |
1964年 (昭和39年) |
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1965年 (昭和40年) |
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1966年 (昭和41年) |
4月、第11回オリンピック冬季大会の開催地が、札幌市に決定。 11月、日本アイスホッケーリーグ誕生。 |
1967年 (昭和42年) |
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1968年 (昭和43年) |
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1969年 (昭和44年) |
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1970年 (昭和45年) |
札幌オリンピック施設として新設された札幌市美香保体育館で12月「STV杯争奪実業団アイスホッケー(岩倉組対王子製紙)」開催した。 |
1971年 (昭和46年) |
1月「第11回札幌市民体育大会アイスホッケー競技会」(美香保体育館) |
1972年 (昭和47年) |
2月 第11回札幌オリンピック冬季大会開催 3月「第12回札幌市民体育大会アイスホッケー競技会」(月寒体育館) 日本リーグ国土計画が西武鉄道から分離発足し、リーグ加盟。 |
1973年 (昭和48年) |
1月札幌スケート連盟ホッケー部門は、月寒体育館に少年アイスホッケー教室を開設し、月寒少年アイスホッケークラブ(小学生・中学生)を3月に結成した。 8月25日には、「北海道スケート連盟」からホッケー部門が分離独立して、「北海道アイスホッケー連盟」結成、会長西田信一・理事長西浦清輝・事務局長友成真一。 9月1日「札幌スケート連盟」からホッケー部門が分離して、「札幌アイスホッケー連盟」結成。会長東 正和・理事長朝日 孝・副理事長石井一男・事務局長片岡 勲。加盟団体8チーム(会員数152名) 10月「'73 STV杯争奪実業団アイスホッケー大会」(月寒体育館) |
1974年 (昭和49年) |
1月「新春実業団B選抜大会(札幌クラブ対日軽金苫小牧)」を真駒内屋内競技場(アイスアリーナ)で開催し、札幌オリンピック後のアイスホッケー人気で、約5,000人の観客が観戦した。 |
1975年 (昭和50年) |
「HTB杯新春実業団大会」(真駒内屋内競技場) |
1976年 (昭和51年) |
「第44回全日本アイスホッケー選手権大会(A)」(真駒内屋内競技場) |
1977年 (昭和52年) |
「第1回HTB杯全国選抜ちびっ子交換大会」(月寒体育館) |
1978年 (昭和53年) |
「第29回全道大会兼第30回全道高校選手権大会」(真駒内屋内競技場・月寒体育館) |
1978年 (昭和54年) |
「五都市少年アイスホッケー大会」(月寒体育館) |
1980年 (昭和55年) |
「五都市少年アイスホッケー大会」(月寒体育館) |
1981年 (昭和56年) |
「第1回全国中学校アイスホッケー競技会開催(青森県・八戸市)」 |
1982年 (昭和57年) |
「第1回全日本女子アイスホッケー選手権大会開催(東京・品川)」 |
1983年 (昭和58年) |
「'83HBC杯争奪雪印:王子定期戦」(雪印スケートセンター) |
1984年 (昭和59年) |
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1985年 (昭和60年) |
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1986年 (昭和61年) |
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1987年 (昭和62年) |
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1988年 (昭和63年) |
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1989年 (昭和64年) |
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平成
1990年 (平成2年) |
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1991年 (平成3年) |
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1992年 (平成4年) |
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1993年 (平成5年) |
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1994年 (平成6年) |
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1995年 (平成7年) |
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1996年 (平成8年) |
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1997年 (平成9年) |
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1998年 (平成10年) |
「1998冬季オリンピック長野大会」開催 (長野市) |
1999年 (平成11年) |
日本リーグ古河電工が廃部、HC日光アイスバックスが発足、リーグ加盟。 |
2000年 (平成12年) |
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2001年 (平成13年) |
日本リーグ雪印が廃部、札幌ポラリスが発足、リーグ加盟。 |
2002年 (平成14年) |
日本リーグ西武鉄道・札幌ポラリスが廃部、リーグ脱退。 |
2003年 (平成15年) |
アジアリーグ開幕。日本(王子・コクド・日本製紙・日光)韓国(ハルラウィニア)の5チーム。 |
2004年 (平成16年) |
アジアリーグに中国(2チーム)・ロシア(1チーム)が新加盟して、8チームで開催。 |
2005年 (平成17年) |
アジアリーグに中国(北京)・韓国(カンウォンランド)が新加盟し、ロシアが脱退して、9チームで開催。 |
2006年 (平成18年) |
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2007年 (平成19年) |
「2007世界女子選手権大会デビジョンⅠ」開催(日光市・霧降) |
2008年 (平成20年) |
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2009年 (平成21年) |
「2009世界選手権大会デビジョンⅠグループB」開催(月寒体育館) |
2010年 (平成22年) |
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